突然ながら、礫川全次氏が著書の「日本人はいつから働きすぎになったのか」を読んだ。ブラック企業が社会問題化する中で、日本人の「勤勉性」がいつから生じたかを豊富な史料と共に考察してゆく本作。全日本人必読の著書である。
礫川 全次 平凡社 2014-08-18
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「自発的隷従」という概念について
あなたは、大した対価も無いのに働きすぎていると感じることはないだろうか?
最たるものがサービス残業だ。金銭的な報酬が得られないにも関わらず騙し騙し人は働き続ける。それは何故か。
礫川氏は、16世紀のフランスの文人「ラ・ボエシ」の著作『自発的隷従論』を紹介している。
エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ 筑摩書房 2013-11-08
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「自発的隷従」とは、自ら進んで圧政者に隷従している状態のことであり、日本人は「自発的隷従」に侵されているのだという。
日本人の勤勉性、働きすぎ、過労死、過労自殺といった問題について考えるとき、この「自発的隷従」という発想は、きわめて重要な手がかりを与えてくれるのではないだろうか。それにしても、なぜ「日本人」は「自発的隷従」をやめないのか。あるいは、なぜ「自発的隷従」について、自覚しようとしないのか。
日本における勤労のエートス
日本人が働きすぎに至る前提として、礫川氏は「勤労のエートス」を挙げている。「エートス」とは、「道徳的な慣習・雰囲気」のことであり、マックス・ウェーバーが提唱したものだ。「勤労のエートス」とはつまり、勤労を美徳とするエートスのことである。
日本における「勤労のエートス」は、元を辿れば江戸期の浄土真宗や二宮尊徳、武士の倫理規範などが影響している。それらが時代背景と共に変化・曲解され今に至っているのだ。
江戸時代においては、勤勉でない農民が多数を占めていたという指摘は興味深い。日本人の勤勉化は、近代に至る過程で生み出されたことは覚えておくべきだろう。
詳しくは本を参照していただければと思う。
戦時下の状況
さて、現代の「働きすぎ」を考える上では、戦時下の状況が参考になる。
戦時下においては、軍需産業を支える為に強制労働が実施された。その際、食料不足や長時間労働など、生産能率や士気を低下させる要因により無断欠勤や不良品の生産が相次いだのだ。
しかし、そのような状況であるからこそ精神論がもてはやされた。「産業戦士」と呼ばれる多くの労働者は、苛酷な条件の中で、不満を漏らさず自ら必死に働いたのだ。
これは、現代の労働者の姿とも符合するのではないか。
二一世紀の今日、多くの労働者が、「過労死」を招きかねない苛酷な労働条件の下で、不満を洩らさず、「みずから進んで」、長時間労働、サービス残業に従事しているという現実がある。
戦時下と現代の「勤労のエートス」には、重なる点があるのだ。
疑問点
しかし、戦後の「勤労のエートス」の変化の推移には疑問も残る。本の中では、
一九五〇年代なかばから始まった「高度経済成長」(一九五五〜一九七三)によって、社員・従業員の労働時間が大幅に増え、高度成長が終わった後も、そうした状況に変化が見られなかったから、と考えるほかない。
というように、高度経済成長期と現在の働きすぎを比較した記述が見られる。比較した結果、
「高度成長期に、日本人労働者は働きすぎるようになり、その傾向は、今日まで変化していない」
ことが言われる。これは、労働者1人あたりの平均年間総実労働時間の推移と矛盾している。
以下のグラフを見てほしい。これは、「総実労働時間の推移 – 厚生労働省」内の「労働者1人平均年間総実労働時間と何らかの週休2日制の推移(暦年)」のグラフを引っ張って来たものだ。
グラフを見るとわかるように、高度経済成長期から総実労働時間、所定内労働時間は下がり続けている。労働時間の減少という観点を通してみると、働きすぎの傾向が変わっていないという主張は根拠に乏しく思える。
ただし、バブル崩壊以降の労働時間の減少は、非正規雇用が増加したことが要因でもあることに注意が必要だ。その証拠に「総実労働時間(パート労働者 を除く)」はバブル崩壊以降微増している(平成21年に減少に転じるが)。
労働者側の意識の変化
それでは、労働時間が減少したにもかかわらず働きすぎが問題となっているのはなぜか。ここではやはり、労働者側の意識の変化を前提として考えてみたい。
高度経済成長期の能力管理主義
高度経済成長期の日本企業は、終身雇用制、年功序列賃金、企業別組合などを軸として成長してきた。これは、労働者の参加意識の高まりに繋がったという。
一方、1960年代半ば頃から、「能力管理主義」という管理システムが注目されるようになった。「能力管理主義」は、年功序列賃金の克服を図るものであったから、業績に応じた評価を下さなければならなかった。そのため、「業績主義」を採用するべきだったが、実際には人格全体が評価されてしまった。労働者の協調性や自発性が重視されたのだ。
自発的隷従に対する疑義
80年代に入ると過労死や社畜が問題視され、従来の日本型経営に批判が浴びせられるようになった。また、ネオリベラリズムの台頭により、「会社に依存せずに市場で生きる力を付ける」という価値観も少しずつ普及してきた。
そのような流れの中で、「自発的隷従」が疑問視される風潮が出てきたのだ。年齢間での経済的な格差を指摘する声もあるが、日本人の精神性に対する疑義がブラック企業を社会問題化させている。
「言われなくてもやる」というような「自発性」に対する認識の違いが、労働観のミスマッチに繋がっている。昨今のブラック企業批判は、日本人の精神性の変化によるものだと考える。
この動画だけで判断はできないが、今よりも過重労働に見える。
価値観の狭間
それでも、過労死や過労自殺は起きている。
従来の日本型経営に代表されるような「自発性」が否定されている一方で、未だ「自発的隷従」のメンタリティが残存しているからだ。「働きすぎ」を問題視していても、働きすぎてしまう。そんな価値観の狭間に日本人はいる。
「自発性」を収入源に向けて備える
あくまでも個人の予想だが、インターネットの発達により、今後ますます「ブラック企業的な体質」が告発されていくはずだ。それに伴い、「自発的隷従」も否定されていく。
そこで、将来的にそのような流れが加速するのであれば、今のうちから「自発的隷従」に疑義を挟んでおくことを提言したい。年齢間の経済的格差が広がる中では、働きに見合った給与が支払われる保証も無い。「自発性」を収入源に向け、的確に確保していくことが重要であるように思う。
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