市場を意識すると思考が変わらざるを得ない

mixiで、頭の良いやつは言語化されていないものを自身で言語化する能力に秀でていると書いたことがある。たとえば、よさこいの踊りに関する部分。僕の出身である北海道にはよさこいソーラン祭りという一大イベントがあって、初開催から20年ほど経った今でも賛否両論の祭りがある。

言語化しにくいよさこいの踊り

その賛否に関してはどうでもいいのだが、よさこいの踊りというものはなかなか言語化しにくいものがある。「あの踊り綺麗だな」と感じても、実際に何が綺麗であって、どこが素晴らしいかがイマイチわからない。確かに直感的に綺麗さは感じるのだが、それを言語化できない訳だ。

実は僕自身、大学時代によさこいサークルの副代表を務めていたことがある訳だが、当時は指導らしい指導が全くできなかった。何が良くて何がダメなのかわからないからだ。だから、基本的に精神的には空っぽであったことを記憶している。大変申し訳ないんだけど(そして今動画で確認すると、踊りが非常に下手に見えた)。

思考の深さ

しかし僕とは対照的に、指導で遺憾なく力を発揮するやつもいる訳だ。強烈なリーダーシップでバシバシ指導していくやつ。「まぁ良いんじゃないかな」という僕の感想をいとも容易く打ち砕いていく訳だ。どうしてそれほどこだわりを持って指導ができるのかが当時は全くわからなかった。

今思えば、思考の深さが違うんだよね。ベストな踊りとは何かを何度も反復しながら頭で修正してる。問題点の認識から始まって具体的な改善に移行すると思うんだけど、そのループを繰り返し実施している。だから、練度の高い理想が出来上がってくるんだね。しかも、脳みその中で何度も確認をしているので、多少反論されようがブレることは無い。まぁもちろん個人のキャラクターによって、譲歩の範囲に差は出てくるのだろうけど。

当時は踊りに対してのこだわりが無いことが悩みだったけど、そもそも考えていなかったんだね。悩みを悩みのままで終わらせていたのだ。それでも大学生だから大きな問題とならなかった。親の金で暮らせて行けた分、金銭面で悩むことが無かったからだ。それにサークルとしても厳しいものは求められていなかった。だから全く問題が無い。

資本主義という土俵の中で

ところが今は立場が違う。資本主義という土俵の中で戦わなければならない訳だ。金を得るために、市場の中で個人の能力を高めていかなければならない。需要と供給のバランスの中で、超過需要のポジションを確保しなければならないのだ。それを当時は理解していなかったことが悔やまれる。

今は理解の質を高めることに全力を注いでいるが、レベルアップには限界があることも事実だ。年齢を重ねるごとに体力が低下してくるからだ。それでも現実は無情にも過ぎて行く。これからもただひたむきに、頭の中でPDCAを繰り返して生きていこう。

※追伸 2ヶ月のニート期間を終了したいと思います。

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元公務員。「ゆるく生きたい…!」「夢がありそう…!」と希望を持って地方から上京したものの、東京の荒波に晒され地獄感を味わう。過労とストレスで体を壊すぐらいなら冷蔵庫を壊そう。