痛みや苦しみの先に見える「事なかれ主義の自分」という何か

誰かを動かす時には、痛みや苦しみが伴う。人間は現状バイアスにより変化を嫌い、そのような人間を動かすには大きな労力が伴うからだ。だから、こちら側としてもできるだけ事なかれ主義でいた方が楽だ。痛みや苦しみを感じなくて済むのだから。

僕は元々マネジメントが上手い方だと思っていた。大学のサークルでは副代表を務めていたし、聞き役に徹することも多い。誰かのモチベーションを高めるのはそれなりに上手い方。そんな風に思っていた。

大きな壁にぶち当たったのは、前々職でスタートアップに入社した時だ。僕に任されたのは、とあるウェブメディアの編集長。当時はライター、インターン生ともに複数人抱えた状態で、マネジメント力を大きく発揮するチャンスだったのだ。

確かに、彼らのモチベーションを高めるという意味では一役買ったのかもしれない。ライターさんから記事の作成方法の幅が広がったということで感謝の言葉を頂いたこともあるし、インターン生ともそれなりに仲の良い関係が築けた(退職の際にはインターン生からリラックマのマグカップとコン◯ームをもらった)。

しかし、僕は人間関係の痛みや苦しみから逃げていた。「周囲は高学歴のマジすげー人ばかりだ!2年ぐらい勤めれば、輝かしい履歴書になる!」と意気揚々と臨んだモチベーションは死んでしまった。コンテンツの編集に留まらない無限の裁量の中、一歩踏み出して誰かから指摘を受けることが怖くなっていたのだ。つまり、失敗が怖くなっていた。

どこまで仕事すればいいんだろう?どうしてここまで頑張らなければならないんだろう?の悪循環。結局、仕事内容はローテーションとなり、切り込んでいく姿勢は失われてしまった。そう、ローテーション業務なら、大きな失敗をしない限り怒られることはない。消極的になることで、人を動かす痛みや苦しみから逃げることができた訳だ。

だが、僕はそんな事なかれ主義の自分を見るのがとても嫌いでもある。だから、「頑張らねば!頑張らねば!」とは思っていた。当時、平静を装いつつ強烈な葛藤に襲われていたのを思い出す。見事に限界を迎えた訳だが。

当時に戻りたいとは微塵も思わない。公務員を辞職時よりも辛い経験だった。だが、今後も人を動かす必要に迫られることがあるはずだ。実際、痛みを感じつつ交渉に臨んだ出来事が久しぶりにあったからこの文章を書いている。

「痛みや苦しみを感じた時に本性が浮かび出るから、できるだけ本性は見たくない」のは確かだ。だから、基本的に逃げて良い。しかし、差し迫った状況の中で人を動かすのが避けられないのなら、何のためにやるのか?(大義は何か?メリットはあるか?)、相手のメリットは何か?、どう動かせるか?、そしてどう愛されるか?を冷静に考える頭脳は持ちたい。

「事なかれ主義」という嫌な自分像が久しぶりに出てきたので、勢いで書いてしまった。終

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元公務員。「ゆるく生きたい…!」「夢がありそう…!」と希望を持って地方から上京したものの、東京の荒波に晒され地獄感を味わう。過労とストレスで体を壊すぐらいなら冷蔵庫を壊そう。