今日は2018年5月1日、世間はゴールデンウィーク真っ只中だ。Instagramには主に旅行報告で溢れ、周囲もつかの間の連休を堪能していることをうかがわせる。かたや僕の方も会社から9連休をもらい、長期休暇を堪能しているところだ。
ただ、あまり予定は入れておらず、Ruby on Railsの学習に時間を費やしている。具体的には、Progateで道場コースを2周し、Udemyでの学習に入ったところだ。今学習中のコンテンツは、Githubやターミナルの使い方を実務形式で教えてくれる。これは結構助かる、というか開発をする上で避けて通れない道だ。いざ開発環境を構築しても根本的な仕組みがわからなくてつまずくことがあるからだ。
たとえば、railsサーバーを起動したい欲求があるとする。ターミナルに「rails s」を入れれば勝手に起動してくれるはずだ。が、実際には「cd」で作成したRailsアプリのディレクトリまで移動して初めて効果が出る。初心者はそういう小さなところで詰まりやすい。
だから、プログラミングは複数の媒体を使用して包括的に勉強して行くとまだ覚えやすい。そこで僕はシェアハウスのリビングでパソコンを開き、近くのイオンでタイピングをし、少し離れたマクドナルドで画面を眺め…そして来る限界と絶望。経験上、口も開かず黙々とパソコンに向かえるのは、連続で2日まで。3日以上は発想が皆無となり暗黒が襲うのだ。
以上により、気分転換に西東京エリアを探索することにした。未踏の地、東村山まで西武池袋線で向かう。
恐怖感。東村山から狭山公園までの道のり
到着は17時過ぎ。小さな旅は思いつきで始まることがほとんどだ。西武池袋線から西武新宿線に乗り継いで東村山駅まで来たものの、大いなる目的がある訳でもない。ただ、未知の何かに遭遇したいだけだ。ひとまず地図を開き、西側の狭山公園を目指す。
しかし、西東京の山奥の方はどこか空気が重い。以前、秋川渓谷に散策に出かけた際も同じことを感じたものだ。薄暗い夜道に寺や地蔵、神社が点々としている地理的な特性によるものだろうか。街並みは素敵だがすでにお腹が痛い。
画像はかなり加工しているため想像しにくいが、電飾が和風で仄暗いため独特の雰囲気を感じることができる。
おばけや幽霊の類は全く信じていないが、暗闇の神社を目の前にすると嫌でも想像を掻き立てられる。金山神社の鳥居は異世界への入り口のようだ。
30分ほど歩くと、あっと言う間に狭山公園に到着だ。未知の場所はどうしてこんなにも怖いのだろうか。胃袋の痛さが緊張感を如実に表す。一方で、これが求めていたものだという気もする。現地では「早く帰りたい」と思っているが、危機感はモチベーションをもたらす。不安や恐怖が記録への情動を掻き立てる。東村山に向かわなければ記事を書くこともなかっただろう。
しかし、なぜ僕は逐一探検しなければならないのだろう。思うに、探検はモチベーションを刺激するための手段のひとつだ。半ば創作のやる気が出れば方法はどうでもいいのだ。
数回の旅で、そのように何週間も暮らしたあとで、グループの仲間はロンドンでの現実の生活が天空に消えてゆくような感覚をもち始めた。 – 「立入禁止」をゆく -都市の足下・頭上に広がる未開地
旅の醍醐味は開放感だ。無意識に刷り込まれた日常の役割を脱ぎ捨てて自由を得る瞬間である。一時的に得られる開放感に身を任せる。
狭山公園は狭山湖に隣接した公園だ。公園の出口に安堵感を覚える。ひとまず目的は達成できた。
町歩きで得た3つの気づき
気づき①:地元民が使う田舎のラブホテル
以前、廃墟探索の際に気づいたのだが、田舎のラブホテルは地元民が使っているようだ。
山奥に突如出現したラブホテルの近くに停車したところ、軽自動車で入店する現地の住人を多数確認している。今回も、西武遊園地の近くのラブホテルに入店する車を複数見ることができた。彼らのほとんどは両親と同居しているのだろうか。そう考えると少し息苦しい。
田舎のラブホテルには根強いニーズが存在するようだ。
気づき②:電飾を使った家が流行中…?
クリスマスツリーのような電飾を使用した家が比較的多いような気がした。東村山のトレンドなのだろうか。今は5月だから1年中灯しているのだろうか。
気づき③:安全な予定調和の環境
小さな旅の終盤、所沢駅に到着だ。燦々と輝くLEDの明かりに安堵感すら覚える。鬱々とした道並みを通ってきたのだから無理はないのかもしれない。普段生活している場所は、安全・安心な環境なのだ。何気なく生活すると気づくことができない。
しかし、安定した環境にいればいるほど刺激を求めたくなるものだ。予定調和の世界に浸ってしまうと段々飽きてしまう。だから休日は旅行に行って未知の世界を楽しむのだ。
大事なのは目に見えない恐怖や不安だ。
一時的にヤバい環境に晒されると、纏っていた世間の役割が剥がれるような感覚がある。代わりに出るのは、世間に対してどう距離を置くか、どういう立ち位置で見るかという自分の姿だ。
最後にこの言葉を送ろう。
気候変動の大惨事後や大破局後の空想は大衆文化に広く浸透している。『マッドマックス』、『28日後』、『12モンキーズ』などの映画やテレビ番組から、コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』のような書籍、それにバイオショックやレイジなどのコンピューターゲームまで多岐にわたる。こうしたすべての作品のなかで、未来は殺風景な暗黒卿として描かれていても、その根底には強い高揚感がある。国家、社会生活、および文化的期待から解放されることでもたらされる自由であり、頼るべきものも心配すべきも自分しかいないことである。 – 「立入禁止」をゆく -都市の足下・頭上に広がる未開地
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